Spark (スパーク/星火)

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中国人が見た日本:小倉城訪問記(その5)~独自の歴史文化遺産

※Noteからの転載です。

https://note.com/sparkxinghuo/n/n115ae0684869

 

町は地域文化の縮図である。 天守閣の1階には、何世紀にもわたる小倉のユニークな歴史と文化が展示されている。 どんな文化であれ、衣食住や交通とは常に密接な関係があり、むしろ文化の凝縮された表現である。

小倉藩は、おそらく日本で最も早くから国産ワインを生産していた。 記録によると、寛永5年(1628年)に藩主細川忠興が、当時は買える人が少なかった西洋の輸入品であるワインの製造を命じ、製造した際には主に贈答用として使われていたようである。 私がかつて留学した小倉の土地が、日本の国産ワインの生産が始まった場所だと知り、お酒の中でも特にワインが好きな私の心は、少しざわついた。

お酒と言えば、つまみが欠かせない。藩主は、我々のために小倉の郷土料理「粕炊き」を用意してくれた。イワシやサバを栄養価の高い粕入りのタレで煮込んだものである。 細川、小笠原の両大名だけでなく、小倉城下の武士や民衆にも喜ばれた。 この料理が受け継がれたからには、いつか試してみなければならない。私の一番好きなワインにも当然合うことだろう。

この「粕炊き」を盛り付けるのなら、「上野焼」を使うことで郷土料理の特色をさらに出すことができる。 上野焼は有田焼ほど有名ではないが、小倉藩の窯元として、こちらもまた特徴がある。 色彩は豊かで、野性味があり、緑青釉が代表的だ。 16世紀後半から17世紀前半に始まった上野焼は、毛利家、細川家、小笠原家の支援のもとで発展し、現在では日本政府によって伝統工芸品として認定されている。

このように重層的な文化を生み出せるのは、小倉藩の歴代藩主の文化教養の高さと無縁ではない。細川忠興は文武両道で、日本茶道の始祖である千利休の後継者でもあり、茶道を広く宣揚した。 もちろん、力がものをいう時代には、政治力や軍事力の裏付けがなければ、文化は花開くことはできない。 それは、小笠原家のシンボルである家紋にも表れている。 家紋は「三階菱」と呼ばれる「王」の字を象ったもので、後醍醐天皇の承認がなければ、どの藩主も使おうとはしなかったという。 小笠原は小倉藩主として九州一円の大名の監督を任されており、その強さは今さら説明するまでもないだろう。 (続く)

【出典】https://www.toutiao.com/article/7112758734803304975/
【翻訳】松本忠之