Spark (スパーク/星火)

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中国人が見た日本:小倉城訪問記(その4)~武蔵と小次郎の決闘

※Noteからの転載です

https://note.com/sparkxinghuo/n/n70b27fd909c5

 

2階と3階の主な調度品は、小倉城の歴史上の人物や文化が中心となっている。 古来、小倉は九州から本州への玄関口であり、鎖国時代には小倉を制するものは九州全体を制するものであった。

戦国大名毛利元就が最初に小倉城を築き、その後、豊臣秀吉の信頼を得て毛利勝信が城主となった。 秀吉の死後、関ヶ原の戦いで天下が決した1600年、細川忠興徳川家康の信頼を得て、中津城から小倉城に移り、小倉城主となった。 1632年、細川家は他所に移り、親戚の播磨・明石城主小笠原忠勝が新たに小倉城主となった。

小笠原は譜代大名で、徳川家から九州地方の外様大名の監督を任されていた(親藩大名譜代大名、そして外様大名の区別はここでは論じない)。 幕末の慶応2年(1866年)、小倉藩小倉城から撤退した際、小倉城は焼失してしまった。 その前の天保8年間(1837年)に天守閣がすでに火災で焼失して復刻しておらず、第二次世界大戦後に再建され、現在の鉄とコンクリートの新しい天守閣が誕生したのである。

小倉城の歴代城主よりも興味を惹かれるのは、3階の宮本武蔵かもしれない。 寛永9年(1632)、すでに50歳を超えていた武蔵は、小笠原忠貞と共に小倉にやってきた。この時、すでに名を馳せていた武蔵が入念に育てた養子の伊織(武蔵の兄の次男)は、主君の最も信頼する家臣となっていた。この時、1612年に行われた、生涯20回近い決闘のうち最も危険な決闘のことを思い出していただろう。29歳の時、巌流島でライバル・佐々木小次郎に打ち勝ち、連戦連勝の輝かしい歴史を築いたのだ。

そのため、二人の決闘の物語は、さまざまな作品で何度も何度も広く語られてきた。 吉川英治は武蔵の長編小説を書き、井上雄彦は全37巻の漫画にし、イギリスの有名作家ウィリアム・スコット・ウィルソンも晩年の武蔵の剣術の名著『五輪書』を英訳しているほどだ。 (続く)